印鑑の存在価値に関する一考

印鑑を押すという行為がどのような意味や価値を持つのか、時々ちょっと考えてしまうのは、私だけでしょうか。
色々な書類に印鑑を押すと、何だか急に信憑性のある「重要書類」に早変わりするように見えます。
特に「三文判」と呼ばれる印鑑を押す場合、「ここに印を押すのは何故?」と、ふと思うことがあります。
なぜそんなことを思ってしまうかというと、近頃ではあちらこちらで、既成の質の良い印鑑が簡単に手に入ってしまうからです。
それ自体は良いことですし、悪いことでも何でもない思いますが、同じ印鑑をこれだけ大勢の人が持つことができるのだと思うと、「これでいいのかな」と感じてしまいます。
個人情報の流出や、手の込んだ「犯罪」と呼ばれることに、自分がいつ巻き込まれるか分からないこのご時世です。
せっかく印鑑を押すのですから、自分の購入する印鑑と同じものを、他人が持てない、または使えない、という仕組みがあったら良いのにと思っています。
これだけデジタル時代化されている中、いかにもそれと対極的にあるような印鑑を押すという行為は脈々と受け継がれています。
そういう文化を、意味のあるものとして本当に継続していきたいとすれば、印鑑をなぜ押すのか、という基本的な意味に立ち返る必要があるような気がします。
近所の印鑑屋さんは、気づいたら別のお店に変わってしまっていました。駅裏の印鑑の古いお店は、何だか暗く棚はうっすらと埃を被っているように見えました。
それは一体どういうことなのでしょう。
フランスの名映画「太陽がいっぱい」で、犯罪者に扮した主演のアラン・ドロンが、目論んだ完全犯罪を完璧にするために、必死に他人のサインの筆跡を練習する場面。
皆さんは見たことがあるでしょうか。印鑑を買う・押すという行為の重要性を、今一度再認識したいものです。

シャチハタと実印の使い分け

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シャチハタと実印を使い分けています。普段は圧倒的にシャチハタの方が使い勝手が良いです。何しろ、朱肉を使用しなくて良い、これは大きな利点です。1日に何回も押さないといけない、単純な事務仕事、すなわりいわゆる認印としてはシャチハタを利用します。シャチハタといっても最近では百均のものを使用するようになりました。百均を侮るなかれ、取り立てて使用感も変わらず、むしろ扱いやすいくらいです。失くしてもまた買えばいいやという安心感からか、かえって失くしません。友人にも勧めたくらいです。ごく稀な苗字は別にして、ほとんどの苗字はカバーされているのも有難いです。一方、実印は母が私が社会人になった時に作ってくれたものです。象牙製で、お値段はびっくりするほど高価なものです。結婚後、苗字が変わっても使えるようにと、名前のみが彫られています。こちらはもっぱら契約事に使用しています。この実印を使用する時はちょっと緊張してしまいます。シャチハタのようにポンポンと押すわけにはいきません。まず、実印は机の引き出しに大切に保管していますので、通常は持ち歩くことはしないようにしています。うっかり落としてしまったら、印鑑登録もしなおさなければなりませんから、持ち出しは最低限度にしているのです。ゆっくり、じっくり書類をよくよく読んで実印を押したいので、外出先でポンと押すようなことは避けています。最近、外出先に持ち出したのは賃貸借契約くらいでしょうか。今では付属の立派な印鑑ケースの中の朱肉はすっかり空っぽになってしまい、別購入した朱肉を使用しなければならない手間も実印の重さからすると、ちょうど良い感じがします。私にとってシャチハタと実印は、それぞれなくてはならないものです。